昨日は【哲学カフェ@武庫東】でした。7人にお集まりいただきました。
雨の合間に催すことが出来て良かったです!お越しいただいた皆さま、ありがとうございました。

テーマは「劣等感」でした。


どうやら劣等感は、他者から基準を受け取ってしまうことが引き金になるかもしれません。幼いときに養育者などから受け取ってしまったあるいは押し付けられた基準のようなものがあります。それがその後の人生を縛ってしまうことはよくあることのようです。

その基準には、さらに「他者」が関わっています。兄弟や同級生など身近な「他者」との比較、これが結構キツイ。

身近ではない雲の上のような人との比較は、劣等感には影響しないようです。

ややこしいのはほどほどに身近な存在かもしれません。手が届きそうな感じで具体的に目指そうとします。すると、今度は自分で自分に失望するようなことも起こります。

同級生とは、このような微妙な存在かもしれません。3月生まれの人は4月生まれの人に比べれば1年近くも差があるので、劣等感を感じることもあるようです。でも逆に、一番若いことに優越感を感じることもあったり、他の同級生よりもセンシティブになるのかもしれません。

同級生やったのに、大活躍して有名になるような人が出てくると・・・あぁ、劣等感!?

生きていれば状況は変化します。私が属していたAと言うグループではどうやらメンバー同士、ある劣等感を共有している。そのようにグループができているかもしれません。

とある事情でその劣等感を私が感じなくなったらAと言うグループからは離れていくように思われます。そしてBと言うグループに入る。

Bと言うグループでは劣等感を共有する代わりに互いのすばらしさへの憧憬や尊敬が共有されているかもしれません。

つまり、私は「同じであること」に安心している。。。のかもしれません。

さて、そもそも劣っているとはどういうことでしょうか。
<劣等>とは、劣ったレベルと言う意味でしょう。すると何のレベルかと言う「何」の部分と「レベル」の部分と別々のように思われます。

足が速いことに劣等感を感じると言う例を考えてみましょう。学年で最も足が速い人はいつでもリレーのアンカーに選ばれ、活躍を期待されてばかりだと、イヤになる。
これは、足が速いことそのものとは少し離れた事柄です。視線が違うと言うか焦点の当て方が違うと思われます。

足が速いこと、と聞いただけではなぜそれが劣等感を感じるのか分かりにくいかもしれません。この例では「何」の部分には色々なことが付いて回っている、と言うことに気が付かされます。

では、劣等感から自由である、あるいは劣等感を感じないとはどういうことでしょうか。
勝負に出ないこと、比較しないこと、周りを全部一律にバカだと思うこと、初めから異質であると決めつけること・・・この辺はなるほどと思わせますが、

対象に対する価値観以外の価値観を感じないこと、と言う意見が出ました。安藤忠雄さんが書いた「百戦百敗」と言う本に話が及びます。つまり、負けっぱなしならば劣等感を感じない?

安藤さんは、建築のコンペに負けても負けてもチャレンジを続けます。と言うことは、もう劣等感を感じている間などない。
・・・そうかもしれません。


さて、【あまがさき哲学カフェ】では5月度から新しいルールを一つ取り入れました。セッションの最後に二つ質問をして親指をあげてもらうことです。

一つ目は「今日は、安心してこの場に参加できましたか?」
二つ目は「今日は、誰にも気兼ねなく自分の考えを表明し、または人の意見を聞けましたか?」

親指を下げるのを他の人に見られるのがイヤなこともあるかもしれないので、みなさんに軽く目をつぶってもらい、この質問をすることにしています。

今回は皆さん、安心してご参加いただけたようです。

では、また。

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